二代教会長のお話                    2024.03
    
      「 信心は生涯教育である 」                                                                                                                                                                                  
  今は非常に難しい時代になりましたが、何が難しいかとこう申しますと、教育ということが一番難しいし、これは大事なことではないかと思いますね。それで、信心とこう申しますと、見方によりますというと人間教育なんです。と同時に生涯教育と言えます。そうして、人生において教育というものが大事なんですが、その教育というものは、教え育てるということなんですから、人間が育って行く過程において、良い方に、良い方に育って行くようにするのが教育なのです。
 すると、信心でおかげを蒙るというふうになるんですが、それを以て信心とこう申しますと、それは少し違うと思うんです。なぜかと言いますと、おかげというのは、いつも申しておりますように、「お」を取ったらいいので、いわゆる信心の影なんです。ですから、『我が心が神に向かう』ということにならなければなりません。それなら、神様とは何なのかということになるんですが、神様はと言いますと、分り易く申せば、「尊い」ことを言うんです。その尊い神様ですから本当のことが心から言えるということになるんです。
 そして、信心の「信」という字は、人べんに「言」という字を書きますが、しかし、人間が本当に心を許して言える相手というものがあるのかどうかということになります。いくら「ここだけの話しやで。人には言いなや」とこう言われても、聞いた人は余計に言いたくなるものなのです。
 あの徒然草に『もの言わぬは腹ふくるるわざなり』とこういうのがありますが、言いたいことも言えないということになりますと、何かがお腹に溜まっているような気持ちになって具合が悪いです。それがストレスとなり、体にも良くないということになるわけです。
 また、「見てはならん」とこう言われると、やはり、見たくなるものです。あの、木下順二という人のお芝居で、「夕鶴」と言うのがありますね、詳しいことは忘れましたが、「つう(鶴の化身)」のお婿さんが「与ひょう」と言うので、その「与ひょう」のために自分の羽根を抜いて綺麗な布を織るんですが、その時に、「つう」は「与ひょう」に「布を織っているところは見てはなりませんよ」とこう言うたのです。そして羽根を抜いてはそれを布に織りますから、段々と痩せて行きます。ところが、「与ひょう」は約束を破って、その「つう」の姿を見てしまうんですね。すると、「つう」は「あなたは見てはならないものを見ましたね」というて、鶴になって空へ帰って行くというのです。というように、見たくなるもので、それが人間の心理というものなんです。そして夫婦でも、「言うて良いこと」と、「言うて悪いこと」が、やはりあるんですね。そらあね、「何でも言い合えるのが夫婦や」とこう言いますけれども、そこには、言うてはならんというものが、お互い
にあるものだと思います。ですから、人間にはそういうように心を許して本当に言えるものがなけ
ればなりません。
 そうして、「親にも人にも言えない心の内の泣き言」や、「愚痴、苦しみ、悩み」というものを、神様の前で言うと、神様はそれを聞いて下さって、「色々と教えても下さるし、元気づけても下さり、道づけもして下さる」という、それが「信心」なのです。そこを間違わないように、よく覚えておいて頂きたいと思うのでございます。
 その次にですね、「行」をするということがありますが、その「行」にも色々あって、例えば、滝
に打たれるというのがありますが、滝に打たれるということは悪いことではないんですが、そうした「行」は何のためにするのかと申しますと、即ち、自分の心に打ち勝つために「行」をするんです。そして、自分の心の中には、「怠け心」というものがあり、「楽していい目をしたい」という心もあるんです。また、人が怖いとこう言いますけれども、人は怖いのでなく、自分の心が一番怖いのです。それは、先と同じように、「良いものは欲しい」「美味しい物は食べたい」「楽もしたい」「いい目もしたい」「ええ所へも行きたいし」というように色々な心があるものですから、人間はちょいと油断をいたしますと、贅沢な方へと傾きやすいものなんです。
 そうして、神様を拝むということも、尊いものを拝むということになりますから、この金光とは「金」光ると書きますね、これは、神様の大きな大きな、み光と言えるのではないでしょうか。その神様の尊いみ光が私の本心の懐へ入って来ますと、後光が差して来ますね。
 ですから、『生神とは、ここに神が生まれるということで、此の方がおかげの受けはじめである。皆もそのようにして行けばおかげが受けられる』とこういうことになりますから、神様の思し召しに少しでも叶ようなおかげを頂かせて貰うて、生きているうちからも、死んでからも、人が忘れずに拝んで貰えるような私になりたいものです。しかし、人よりも先ず第一に、子ども達から拝まれるような親になり、そして孫達からも拝まれるような、おじいちゃん、おばあちゃん、になりたいものでございますね。これは大事なことだと思うのであります。どうぞ、おかげ蒙って下さい。

    
       二代教会長 鈴木弘先生のお言葉