二代教会長のお話                    2024.04
    
『知るということ』と『分るということ』 」                                                                                                                                                                                  
  私は、何が楽しみやとこう言いましても、人にもよるでしょうけれども、お祭りに参拝のおかげを蒙らせて頂きまして、お話を聞かせて頂くというのが、非常に楽しみなのですが、ただ聞いているということはいたしません。必ずノートか手帳にその時のお話の内容を書いておるのです。それでですね、帰って来て改めて読ませて貰うと、大体十中九までは、お話の内容がそのまま再現が出来るほど書かせて貰うておるのです。
 そして次に、私は本を読むということも楽しみにいたしております。当然お道の本も読むということをいたしておりますが、こう言うてはいけませんが、このお道の信者さんは、特にですね,
聞くことは上手と言いますか、良く聞かれますけれども、本を読むということをあまりいたされませんね。ということは不得手なんでしょうかね。
 しかし、お道の信者さんだけではございませんで、一般的に見ても、大体あまり本は読まなくなっておりますね。電車に乗っておりましても、本を読んでいるような人はあまり見かけません。まあ、大学生が漫画を見ていたりいたしておりますけれども、普通の本はなかなか読むということをいたしませんね。その代わりに、テレビを見る機会が多くなったということで、本を読むということが段々不得手になっておるのかも知れませんね。
 私はね、老眼と共に少し白内障になっておりますので段々と目がうとうなりまして、そういうようなことですから、もう岩波文庫のような文庫本は字が小さいこともあって、非常に苦手になって来ております。ですから、出来るだけ大きな活字の本を読ませて貰うということにしておりますが、私はなぜこのような歳でも本を読むかと言いますと、若い時から本を読むのが好きで、そして「もっともっと勉強がしたい」という思いを強く持っておったというのが一つあるんですね。
 それで、私は学院におりました時に、その当時は小遣いを3円貰うんですが、その3円の中で、こう言うたらいけませんが、1円のお供えをいたしますね、3円の小遣いから、1円のお供えをいたしますと、2円しか残らないですよ。その時、読みたいなあと思う本で、特に全集なんかは、そらあ、喉から手が出るほど欲しかったです。けれども、よう買いませんでした。
 なんでかと言いますと、なにしろ、一番安い本で1円50銭なんですから、それを買いますと、僅か50銭しか残らないと言うことになります。そういたしますと、後々身の回りの物とか色々な物を購う(あがなう=買い求める)ということはできませんから、それで、私にとっては岩波の星一つで、いわゆる、20銭の本を買うというのがまあまあで、月にそんな本を2冊買うか、または、星二つあるのを買うのが、まあ関の山ですね。それで、古本なんかを買うようになりました。しかし、古本を買うと言いましても、60銭の本を買う時は、やはり、清水の舞台から飛び降りるような思いで買うことがありましたから、それが、今も私の心に残っておるのかも知れませんね。
 ですから、何かの用事で、たまに外へ出ますと、何か読みたい古本はないかいなと思いながら、つい買いますので、いつも家の者から叱られたりいたしますけれども、別に何の楽しみというものはありませんから、間があったら、「少しでも本を読んで賢うなりたい」というような思いで、今まで、ずっとやって来ておるのでございます。
 しかし、このお道の本をこうして読ませて頂いて、お話をしておりますけれども、話はずーっと
流れて行きますので、皆さんが聴かれておって、その中身を書き留めて行くということは、容易な
ことではありませんから、どうしても聴くだけということなります。すると、それが二、三日して
見ると、その中身はみな忘れてしもうておるというのが、十中九までではないですか。
 それこそ、何度聞いてもザルで水をすくうようなもので、みな抜けてしまいますね。ところが、そうした中で少しずつ、少しずつ残って行くのですが、その残ったものが蓄積されて、知らず知らずに信心が進んで行き、おかげを蒙るということになるのかも知れません。そうして、『願う氏子におかげを授け理解申して聞かせ・・・』と言われるように、その聴いたことが今度は、分るということが大事になって来るわけです。
 この分るということは、なかなか難しいことで、実際はあまり分っていないですね。ですから、その意味に於いて、その深い所が分るというのは、やはり、読まなければ分りません。と言うことで、この読むということは何よりも大事なことだと思いますね。
 そのためには、読む癖をつけなければなりません。お参りも癖なんですよ。また、信心もやはり癖です。そして、その中から考えて、自分のものにするんです。けれども、「知っている」というのと、「分るという」のは、一寸違うんです。例えば、「教祖の神様は、こんなお方であった」「近藤先生はこんなお方であった」と言うだけでは何にもならないのです。そこで、「自分はどうなっておるのか?」そして、「自分がその教祖の神様のご信心と照らし合わせて、どうなっておるのか?」ということを、これは人にじゃなくて、自分がそうなって行くように、「少しでもそういうお方の信心の足元に寄らせて貰うて行こう」ということになるのです。
 ですから、そういう意味に於いて、皆さんも一寸でも間があれば、やはり本を読む癖を付けて頂くということが大事でないかと思いますね。どうぞ、そこの所でおかげを蒙って下さい。。

    
       二代教会長 鈴木弘先生のお言葉