二代教会長のお話                    2024.05
    
『元気な心でご用のお役に立って頂きたい 」                                                                                                                                                                                  
  私ね、じーっと考えて見て、いったい今日まで何をして来たんか、そらあ、七つか八つの年から親に連れられて教会へお参りさせて貰うて来たんです。そうすると、60何年も信心させて貰うて来ておるということになりますが、しかし、今は年も行って老齢になったとは言いますけれども、その60何年も信心させて貰うて来て、先ず、一番近しい家内から「主人は、本当にええ信心をしておられるなあ」というふうに敬愛されているのかとこう言いますと、私自身それ程とは思いませんね。また、子供からも、「うちの親先生は偉い先生やなあ」というふうには思われていないように思います。これは私自身、自分を振りかえって見て、当然のことだなあと思うております。
 ということは、この年になって、どれだけええ信心をさせて貰うて来たんか、玉水の初代の親先生のように、それこそ本当に徳の高い、お年も今の私ぐらいの時ですけれども、それを思うた時に、私は一体、何して来たんやろうか、「信心させて貰うて来た」とこう言いますけれども、「信心らしい信心も出来ておらんやないか」とこう言われるように、どうしても思わざるを得ませんね。なんぼ自分で自分の信心に良い点を付けようと思っても、これは○よりも、△の方が多いように思いますね。
 そんな三角の多い程の私がですね、「30という年までは生きられん」とお医者さんから言われたこの私を、こうして今日、70まで生かせて貰うて、そうして、かつがつにもご用に使うて貰うておるということは、私の信心というよりも、もっともっと大きなお徳、それは「先代(初代)先生のご信心の徳、また、玉水の初代親先生の信心の徳、特に、教祖の神様のご信心、そうして、歴代金光様の御徳を頂かせて貰うてのことなんだなあ」とつくづく思いす。
 だからね、「あんたは、今、何が楽しみやねん」とこう言われますと、こうして神様の前に座らせて頂いてご祈念させて頂くということが、せめて「これ位のことはさせて貰わないと罰が当たる」と申しますと、大変申し訳ないんですけれども、このように思うと同時にこれが有り難いのと一番の楽しみなんです。
 次に「ご飯が頂けるということが有り難いことだなあ」とこう思うております。そしてその次に「お風呂が好きなんです」このお風呂へ入れて貰うということは「なんと有り難い結構なことやなあ」というと、お風呂に入れることが有り難いのは当り前のことですけれども、私はそうは思わないんです。と言いますのは、年が行って来て先ず自分でお風呂に入れるということが有り難いことであり、これも一番の楽しみなんです。
 それで、今度はね、この私のような頼りない者の話を聞いて頂けるということなんです。これは勿体ないほど有り難く楽しいんですねん。すると、もう楽しい中で暮らしていると言うたらよろしいかも知れませんね。ご飯も頂けるし、それも食べさせて貰うて頂かせて貰うと言うのではないんですからね。すると、私は「願い以上のおかげを受けておる」とこういうふうに思うております。
 ですから、お礼申す所が沢山あるのです。それなら、喜んでばっかりかと言われると、そうではございません。やはり、問題も多々ります。あそこの家も、ここの家もというふうに問題があり、また、自分自身の上にも色々と悩みがあり、難しさもあるんです。
 それで、今月の朔日にご本部のご大祭にお参りさせて頂き、お広前でご祈念をさせて貰うており、まして「今年は本当に事の多い年やなあ」と、フッと思うた時に、神様から非常に厳しくお叱りを頂いたのでございます。
 『それは、50年の大きな大きな節ぞ! 信心辛抱せよ! 出来る辛抱は辛抱とは言わん! 辛抱して信心の値打ちを、この時にこそ現わすのだ!』とこういうふうに言われました。
 私、一寸落ち込んでいたのかも知れませんが、それにいたしましても、私、あんなに厳しく叱られたのは今度のご大祭で初めてです。
 ですから、本当に喜んでいると言いましても、そういうものを持っているんです。けれども、今、
言うように「50年の節」というのはあるんですね。これは「なお一層大きく飛躍し、伸びて行く出発点である」というてもよろしいでしょうね。だから、「信心の本当の値打ちをこの時こそ現わさせて頂くために、こうして生かせて下さっているのだ」というふうにも思いました。
 しかし、私は、最初に申しましたように、今日までこのように信心をさせて貰うて来ましたけれども、至らん者が、ほんの僅かな信心の真似ごとだけであるのに、神様が良いようにして下さって、大きなおかげを蒙らせて貰うておると言うことは、「誠に勿体ないことだなあ」と改めて思うのであります。
 また、皆さんの所においても同じことで、色々と悩みや問題があると思います。それを一人で抱えるのではなく、先代(初代)の先生、歴代金光様の日々のご苦労とそのお祈りを受けて、そして、お徳を頂く中での問題であると思うて頂き、手元にある問題や悩みの上におかげを蒙れるように、しっかりお願いをさせて頂いて、おかげを受けて貰いたいのでございます。そうしておかげを受けたら、今度は喜ばせて頂くと同時に、「せめてこの位はさせて貰わないと申し訳がない。何としてもご用に立たせて貰おう」という思いで、元気な心でご用に立って頂きたいのでございます。
 どうぞ、おかげ蒙って下さい。

    
       二代教会長 鈴木弘先生のお言葉