二代教会長のお話                    2024.06
    
      「表(わ)行をするより心行をせよ」                                                                                                                                                                                  
  教祖の神様は、『・・・正月には鯛を供えるのは、氏子の一年中の体(たい)の丈夫を願って、神様に鯛を供えるのである。体(からだ)に水をかぶらなくても、心に水をかぶれ。』というふうに、水をかぶらなくてもええ、いわゆる、『表行よりは心行をせよ』と言われております。また、『山へお籠もりをするというが、山へ籠もらなくても、わが心の中に山をこしらえて、そこへ籠もって修行せよ』とこういうふうにも言われております。
 水をかぶるというのはどういうことでしょうか、それは、水をかぶることが修行と言うのではないと思います。
 では、一体「修行」とは何なのかということになりますが、つまり、一つは「自分に打ち勝つ」ということでしょうね。それで、皆さんはそうではないでしょうが、私は、まあ本当に助からん人間やなと思いますけれども、やはり「楽(らく)をしたい、」また、ありがたいと思うて朝起きる時もありますが、「今日は寒いな、夕べは遅かったから、起きにくいな」とこういうふうに思うこともありますように、自分の心というものには、怠け心というのがあります。そして、ここでは『体の丈夫を願うために、正月に鯛をお供えするのぞ』と教祖は言われるが、また、その「たい」をどのようにも解釈出来るんですね、例えば、「遊びたい、いい目がしたい、いい風(ふう)をしたい、いい物は持ちたい、いい所へは行きたい」というような、そういう「たい」があるんですね。
 こうした、「あれもしたい、これもしたい、」というように思う心に打ち勝つという、これが大きな修行でしょうね。また、水をかぶるというのも、そういう「たい」を押さえるために水をかぶるというのが本当だと思うんです。
 次に、続けるというのも、やはり一つの大きな修行です。昔はテレビというのはなかったですからね。それで、或る人は毎晩というてもいいぐら寄席に行く人がありました。それが信心せられるようになってからは、その寄席に行かれるのがピタッと止められましてね、毎晩参ってこられるようになりました。ある会社に勤めておられた人でしたが、それこそ冬の寒い時でも、夏の暑い時でも、晩ご飯を頂いたら、すぐにお参りせられるのです。それこそ雪が降ろうが、雨が降ろうが、カラスの鳴かん日はあっても、参らんという日は無いというように、お参りしておられました。それで私、偉い人やなあと思いました。そのような人が3,4人おられたのです。その中のもう一人の方はですね、この人は、ある大きな会社に勤めておられましてね、ある時、仕事中に上から物が落ちて来たんです。それで、とっさに除けられたのですが、足に当たって大怪我をされました。それでお医者さんは、「菌が入っているから化膿する恐れがあるので切りなさい」とこう言われたのですが、その人は「いいや、お神酒さんで」と思われて、先代(初代)の先生にそのことをお届けせられたのです。その時私は、修徳殿に行っておりましたので知りませんでしたが、父から「その人は、お神酒さんで、切らんでおかげ蒙ろうと思うてはるねん」と聞かされて、「あんたもお願いして上げなさい」と言われて、名前と年を聞かせて貰うて一生懸命にお願いさせて貰うたのであります。
 そうして、おかげを蒙られましてね、その当時は今のように冷房があるわけではないし、夏の暑い時に大祓いの先唱をせられるんですが、もう浴衣が汗で絞るほどになるんですね。しかし、その人にとったらね、「これが有り難い」というて、毎晩そのようにしておかげを蒙られるのです。
 また、冬やからというて、ガスストーブというのもありませんからね、そして、朝は、早く来
られて、御神殿のお掃除をいたされます。その当時は当番というのはありませんでしたからね、それを、亡くなられるまで続けられておりました。
 今はどこの家でも、家庭の団らんが大切と言いますけれども、団らんをしたから子供との良い?がりになるかというと、一概には言えませんね。その人は、毎晩参って来られますから、その意味においては、そういう団らんというのはないでしょうね。しかし、そういうあり方を子供さん達が見ていますよね。そうすると、そのお嫁さんも、子供さんもお参りされるようになります。そういうふうな具合に、やはり、親の信心が受け継がれて続かなければなりません。これが親の大きな信心の修行と言えるのではないでしょうか。だから、水をかぶるだけが修行じゃないんですね。
 また、人間関係においても、人から腹の立つようなことを言われたり、陰口を言われたり、根性悪されたりというようなことがありますね、それで、ご近所付き合いにおいても、勤めの場においても、周りの人はみんな良い人ばっかりではありませんね。中には「嫌な人やなと思うたり、根性の悪い人やなと思うたり」というようなこともありますが、これに堪えて、こちらから笑うて行くようにして、付き合うて行く、これが信心しておる者の修行です。
 ですから、そういうふうなことがこのお道の修行で、誰が何と言おうとも有り難く頂かせて貰うて、良いように、良いように解釈しておかげにして行くというのが信心の修行というてもよいのではないでしょうか。
 その意味において、信心の修行いうたら、そういう具合に腹が立ちませんようにというて、お願いしても、腹の立つことばっかり起こって来るということもあります。その腹の立つことばっかり起こって来ましても、そこを良いように取らせて頂いて、腹が立つどころか、その中から教えを拾い出して行くような信心、それが、やはり修行です。そのようにして、自分に打ち勝つために修行をするのでございます。
 どうぞ、おかげ蒙って下さい。

    
       二代教会長 鈴木弘先生のお言葉