二代教会長のお話 | 2024.07 | |||
「金神様は間違うた事をすると怖い神様です」 教祖の神様の時は、つまり、田舎でありお百姓のことでございますから、こういう話が多いんですけれども、言わんとするところは、教祖は金神様に信心しておられますから、金神様というたら怖い神様であるが、怖い神様だけに一心にお願いして、心からおすがり申してやらせて貰うて行けば、より以上のお繰り合わせ、おかげを蒙らせて下さるという、これが教祖の神様のご信心の元です。 しかし、このごろはね、その神様は「恵みの神様である」そうして「愛(いと)おしんで下さる神様である」と、そのように言われて来ておりますが、うっかりすると、「神様を甘く見る」というところがなきにしもあらずなのです。 それで、教祖の神様は「み(三)きを供え」とこう言われておりますが、その「みき」とは、『ありがたき、恐れ多き、もったいなき、』なんですが、二つ目の『恐れ多き』という「き」を、私どもは忘れがちでございますね。ですから、神様を軽う見たり、甘う見たり、というようなことになりますと、その時はどうと言うことはありませんけれども、思いもよらない時に、思いもよらない事が、「どかーん」と、起こるということにもなりかねないのです。だから、「油断のない信心をさせて貰うて行かなければならん」ということであります。 その次に、やはり、普通ね「こうしたら、こうなる」即ち、「2+2は4」、「4+4は8」と、いうふうに常識というのがありますけれども、そういう面も当然でありますが、「2+2は5にも、6にもなる」というのが、「信心の大きな面である」ということを言われておるのでございます。けれども、我々の信心において、時には算盤通りに行かん時があります。しかし、算盤勘定で先に考えるとどうしても出来得ないということであっても、そこを一心におすがり申して、「おかげを受けるんじゃという心になれば、そこにおかげを見せて下さる」ということになります。 ですから、常識を先に立てないで、一心におすがりさせて貰うたら、そこにお繰り合わせを頂き、たとえ無理というようなことでも、それが無理でなしに、むしろ、おかげにして下さるということになりますから、最後の最後までお願い申して、その願いを途中で捨てないということが大事なんです。 けれども、神様は初めからずうーとおかげにして下さるというよりも、時によると、「ああでもない、こうでもない」というような問題がよく起こり勝ちなんですが、たとえどのようなことがあろうとも、その願いをおかげにして行くという心構えと、それに負けないで、おすがりさせて貰うて行くという心が大事なんです。 それで、昔のことですけれども、あるところに料理旅館があったんです。そこは女将さんがやっ てれおられたのですが、どう言う訳か、段々はやらなくなりましてね、それで、女将さんは一生懸命に神様にお願いし、お願いししておられましたのですけれども、他所はよくはやっておりましても、自分所はお客さんが少ないということで、時によったら閑古鳥が鳴くほどであったんです。それでも、その女将さんは大阪まで電車の定期を買うてずっとお参りしておられたのです。 するとね、ある人から「大阪まで定期を買うてお参りしておられるが、そういう定期代があるぐらいやったら、一寸でも借金の払いに回しゃはったらええのになあ・・・」と、いうような陰口まで聞かれておったというのでございます。 ところが、12月31日という土壇場に来て、「今日は!」というて入って来られた人がありました。その人はある大手の会社の人でして、「前にあんさんにお願いしておりました、お宅の石垣に広告の看板を掛けさせて頂く件ですけれども、場所を使わせて貰う使用料として、月々何んぼ、何んぼ払わせて貰います。それで、取り敢えず6か月分を置いておきますから、宜しくお願いいたします」とこう言われたのです。それで、少しずつではありますけれども、借金が粗方(あらかた)払えたというのです。そういたしますと不思議なことに、お客さんが段々と増えるようになり、宴会も次から次へとあって繁盛するようになったというのです。 しかし、「そんなんやったら、もう一寸前に神様がおかげにしておいてくれはったらええのになあ」と思うんですが、神様は初めからおかげを下さるというよりも、その土壇場に来ないことには、おかげを下さるのか、下さらないのか分らないのです。 けれども、そうした中で思いもよらないお繰り合わせを頂くのであるから、頭から願いを捨てたり、「あかんなあ」と先に思わないで、とことんまでその願いを立て通し、そして、一生懸命におすがり申して行くという信心がないといけないと言うことでございます。これは、信心的にも非常に大事なことでございますから、よくよく心得て頂きたいと思います。 どうぞ、おかげ蒙って下さい。このお道の信心をしておる者は、教祖の神様の生きられ方、そして、ご生涯とご信心というのはどういうふうであったか、ということを知るということは、そらあ、当然のことなんですが、その中から色々な教えが出て来ておるのでございますから、いわゆる、教典というのは一番大事なんです。その教典というのは、教祖の神様の沢山の教え、生きられ方が出ておるんです。 しかし、我々は、ご伝記金光大神を棒読みして大体のことは知っておるんですけれども、教祖の神様の在られ方の原文を読むということは、我々はあんまり経験がないんです。ましてですね、ご自分で自分が生きて来られたことを書かれているというのはどの宗教でも無いんです。それが、教祖の神様がご自分でお書きになったというのは、これは本当に稀有なことなんです。 それで、高橋富枝という方がお参りになった時に、いわゆる、教祖の神様が亡くなられる少し前のことですが、富枝師に『あなたはおかげを受けたことを付けておられますか』とこう言われると、富枝師は「私は、付けてはおりませんが、良く覚えております」とこういうふうに言われたのです。すると教祖は、紙に書いておられるのを見ながら『私は、こうして書き付けておりますけれども、どうして、こういうことが出来たじゃろうかと、神様が言うて下さるんじゃ。私みたいな者が、ようもようもこういうおかげを受けさせて貰うたことを思えば、有り難うて、有り難うて、泣くまいと思うても涙がこぼれてまいります』とこう言われて、さめざめと泣かれたというんです。 そのように、さめざめと泣かれたと言われる書き付けとは、どういうものなのかと申しますと、「金光大神御覚書」なんです。この覚書は二代金光四神様が書き写されたものなのです。そうして、写真版になって出されたんですが、しかし、これとは別に「お知らせ事覚帳」というのがあるんです。これが長い間、分らなかったのですが、後になって、はからずも金光本家から、こういうものがあるということを言われたんです。なにしろ昔の言葉ですから読みにくいんですけれども、それを色々とご苦労を頂いて、これも写真版にして出して下さったのでございます。これは教祖の神様の直筆でございすからね。 ですから、覚帳を読んで、これがどのようにして整理され、覚書が出来ておるのかということになりますが、別々に見るのでなく、その両方を合わせて見て、教祖の生きられ方を分らせて頂くんです。すると、教祖は生活の中の万般において、常に神様の仰せ通りにしておられたということが良く分るんです。 例えばお百姓のころ、唐臼(とううす)のこと『籾を朝のうちに米にしておけ。新しい唐臼であるから重いので神が手伝いをしてやるぞ。』とか、ウンカ(稲の害虫)のことで『田に油を入れるな』と言われる。これは当時ウンカには油を使うという農民の常識とは反するお知らせであります。また『麦を干さずに俵に詰めよ』と言われその通りにされる。それを向かいの久蔵さんが真似をして、ツミ(穀象虫)がいっぱい湧いて大変な被害を受けたが、教祖の神様のところでは全くツミの被害はなかった。すると神様が『形の真似は出来ても、心の真似は出来ぬ』と言われるのです。そしてまた、『15歳になる淺吉に牛を使わせよ』と言われて仰せ通りにされると、使い始めで暴れる牛がおとなしくなって牛の方から動いて、うまく耕すことが出来たというのです。さらに、色々な「しきたり」のことでも、子供が生まれると『毒断ちをしたり、生まれた子供には五香(ごこう=数種類の漢方を調合した小児用の薬)は要らず、母の乳を飲ませ不浄の毒断ちもなし、平日の通り』とこ う言われ、また、『腹帯をせずして安産』いわゆる、隣知らずの安産ということになるのですね。しかし、口でこう言いますけれども、安産というのは実際大したことなんです。 そして、子供さんが次から次へと疱瘡に罹られますけれども、昔は守り神様というのがあって、いわゆる『毒断ちをするとか、何々を忌むとか、そういうようなことはしなくてもよい』と神様が仰せになっているんですね。このように仰せ通りにして行かれるのですが、生活そのものとしては、我々と同じ生活をしながら、その中でおかげを受け、助かる道を見出して行かれる。その道筋を次々と書いておられるのです。ですから、教祖は世間と掛け離れての在り方でなく、人と人との関係、物と人との関係、仕事の関係というように、色々なことがあって、普通の我々と同じ悲しみ、同じ悩みと苦しみを持ちながら、それを越えて道を見出しておられる。しかし、自分だけが助かるのでなく、まず、家族みんなが助かって行かなければならないというふうになって行かれる。息子さんだって、みんな良い息子さんばかりではない。二代金光四神様のような良い息子さんもおられますけれども、そうでない息子さんもおられる。そしてその子供さんが何とか立ち行って貰いたいと願われておられたということも良く現われておるのでございます。 ですから、原文をよく見させて貰い、「こうしたところから教祖の神様の話が出ているんだな」ということを思うて頂き、それだけを覚えるんじゃなく、今度は自分の生活に合せて、そこのところはどうなっておるのかいうことを考えて、そうして、おかげにして行かなければなりません。おかげは銘々で頂いて頂きたいのでございます。その原点、即ち、「覚帳」「覚書」を読ませて貰う。見方によれば、教祖の神様のおかげ話なんでございます。どうぞ、おかげを蒙って下さい。 二代教会長 鈴木弘先生のお言葉 |
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