二代教会長のお話             2023.09
 
    「 的(まと)なしの信心 」                                                                                                                                    
  教祖の神様の教えに、
 『生きておる者にはみな、おかげをやってあるぞ。ご恩を忘れなよ。その中にも、まことのおかげを受ける者が、千人に一人がないぞ』「『天地金乃神の御徳は、その身から受けよ』と語りておけば、誤ることはなし」『的は無的の信心を授けておくぞ。一心を定めて、いただくがよし。おかげは受け勝ち、守りは受け得。おかげを受けたらご恩を忘れてはならぬぞ』とありますが、ずうっと読ませて頂きますと、みな分っておることばかりなのです。
 それでは、どこまで分っておるかということになりますと、そこは、なかなか分らないもので、ここに、『まことのおかげを受ける者は、千人に一人がないぞ』とこうございます。この『まことのおかげ』というたら、どんなおかげかということになるんです。そこで、信心はとこういうと、やはり、私どもは先ず「身体丈夫、家業繁盛、子孫繁栄」ということが一番に願いとするところでございます。しかし、口でいうておりますけれども、本当は実際に見ております限りにおいては、目先のところがうまく行きましたら、それで、やれやれと思うんです。今、言いましたように「信心は」とこういうたら、もっと大きく見て『いつまでも尽きぬおかげ』というのがあるんです。それは、「いくら汲んでも、汲んでも減ることのないおかげ」なんです。また、『先の世までも持って行かれ。子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることができる』と言われております。 
 そして、明日の10月10日は、教祖の神様がお亡くなりになった日であり、体育の日でもありますので、本部広前でお仕えになるご大祭は、もう祭場に入り切れないほどのことになりますが、教祖の神様お一人のご信心がそれだけのおかげを生み出すという、これが『まことのおかげ』なんです。ですから、そのようなことを思うたら我々は「小さなおかげ」に止まっておるということになります。
 そのようなことで、『まことのおかげを受ける者が』ということになると、大きな、大きなおかげを受けようと思う者は、千人に一人ということになります。そういうふうに思いますと、やはり、願いは大きい方がいいのでございます。
 また、「天地金乃神のお徳は」とこう言いますと、これは天地一杯のお徳なんです。それを受けるということになりますと、それを神様から受けるというよりも、『この身から受ける』という心がなかったらあきませんね。なんぼ親がそれを願うて祈っておっても、子供自身がそれを受ける気がなかったら、これはどうしょうもありません。ですから『おかげは 和賀心にあり』と言われるように、その身からおかげを受けて行くというのでないといけませんね。いわゆる「この身から打ち込んで」ということになります。
 その次に、『無的の信心』と言われておりますが、みな間違えるんです。下手な我々でしたら、弓で矢を的に打ち当てることは出来ませんね。ましてや、真ん中の黒い丸に打ち込むということは、とてもやないが、熟練した上手な人でないと打ち込めません。すると、やはり的があるということは、考えて見たら難しいということです。
 けれども、我々の信心の的はというたら、一心を定めたらみな当たるというんです。いわゆる、的がない無的というもので、この的が無いということは、どれもみなが的であるということになるんです。ですから、唯、一心に「神様」とこう言えば、どのようにやっても、みな当たるということになるんです。それで、『おかげは受け勝ち、守りは受け得。おかげを受けたらご恩を忘れてはならん。』とこういうことになります。
 ですから、我々は願いの信心に一生懸命になりますが、「神様、有り難うございます。私のような至らん者で、信心の「し」の字も出来ておらん者でございますが、こうしてやらせて貰うておるということは、勿体ないことでございます。本当に申し訳ないことでございます。それが、今日こうしてあらしめられておるということは、本当に有り難いことでございます。」と芯からお礼を申したら、それでもう的に当たっているということになり、もうそれでおかげが頂けておるのでございます。そして、一心の願いというようなことでなくても、芯からお礼が申せたら、おかげになるんです。
 そこで私はと言いますと、毎日朝神様に「本当に今日と言う日を無事に迎えさせて頂きまして有り難うございます。また信者さん一同、病気病難、不意難不意死、火難盗難、交通事故、怪我過ちがございませんように」というようにお願いさせて頂きます。また、信者さんが「自動車でお国参りいたします。」とこう言われると、それをずうっと願わせて貰う。何しろ岡山まで自動車を運転して行かれるんですからね、「道中、事故、怪我過ちがございませんよう、結構にお国参りが出来ますように、無事に帰って来られますように」というふうにお願いさせて貰います。そうして、帰って来られると、「ああ、結構にお参りせられて無事に帰えられたんやな」と安心もし、神様にそのことをお礼申し上げるということになります。
 このように色々と申しましたが、すべてのことを含んだお願い信心も結構、お礼の信心も結構、お詫びの信心も結構。こうでないとおかげにならんと、そんなちっぽけな信心ではないのです。
 ですからどうぞ、しみじみと、どの教えもよくよく味合うて頂きたいと思うのであります。

    
二代教会長先生が掲示板に書かれたお言葉