○ こころの散歩道
 
「グミの木の下で」」
  わが家のグミの木が、今年もまた、枝もたわわに真っ赤な実をつけた。サクランボを楕円形にしたような見た目で、渋くて酸っぱいその味は、毎年我が家に初夏の訪れを告げる。
 すくすくと伸びたグミの枝は、実の重さに耐えかねて、生け垣を越え、通行人の頭上に垂れてくる。年輩の人にとっては、グミは郷愁を誘うようだ。
 「グミですね。懐かしいなあ。あ、いいですか。じゃあ、ちょっと失礼して・・・。あーっ、この味。昔はどこの家にもありましたよね。誰が取って食べても叱られない、いわば、子どもたち共有のおやつでね、巡り歩いて味比べしたこともありましたよ」人間同士の温かい結びつきの中で育まれた幼い頃の思い出。グミの味は、そんな遠い記憶を呼び覚ます鍵になったようだった。
 道に張り出した枝は、ちょっとお邪魔かもしれないけど、剪定するのは実の時期が終ってからにしよう。皆さんどうぞご自由に。
 おばあちゃんが押すベビーカーに乗せられて、2歳ぐらいの男の子がグミの下を通りかかった。木漏れ日の中にきれいな赤い実が輝いている。男の子はパッと目を輝かせ、指さして、「あっ、あっ」と声を上げる。私が「どうぞ」と手真似すると、おばあちゃんは会釈して、一つ摘み取り、口の中に入れてやった。男の子はうれしさを満面に表わしてモグモグし始めたが、突然口の動きが止まった。人生初の渋味と酸味に驚いたのだろう。これはいったい何なのかと、難しい顔で考え込む男の子に、おばあちゃんはすかさず、「グミだよ。おいしいね」とニコニコ顔で声をかける。男の子もつられてニコニコし、この味も「おいしい」の範疇(はんちゅう)に入るのかと納得したようだった。
 人間が何をおいしいと感じるかは、経験によるところが大きいと言われている。苦いはずのコーヒーをおいしく感じるのも、その味が休憩時間の安らぎや楽しさと記憶の中で結びついているからなのだとか。
 「おばあちゃんと楽しい時間をたっぷり過ごして、おいしいものが増えるといいね」と、私は心の中で応援した。
 それにしても、このグミの枝は伸び過ぎだ。実はまだついたままだけど、道路にはみ出た枝を切り落とすことにした。脚立に登って剪定鋸で大枝を切り、ビニールシートの上に落としていく。
 気づくと、 下校中の女子高校生が一人、ポカンと私を見上げていた。名前は知らないけれど、あいさつだけは交わす顔見知りの女の子だ。
 「ちょうどよかった。その枝についてるグミ、ぜーんぶ持って帰っていいよ。ジャムにしてごらん。とってもおいしいから」
 私は家の中から紙袋を持って来て、いっしょにグミを収穫した。彼女はずっしり重い袋を抱え、
ちょこんとお辞儀をして帰りかけたが、すぐに戻って来た。そしてカバンの中をゴソゴソ探り、ほしぶどうパンを一つ。
 「学校の売店で買ったんですけど、どうぞ」
 私は「そんな、気を使わないで」と言いそうになったが、断ったらかえって恥ずかしい思いをさせてしまいそう。「まあ、おいしそうなパン。ありがとう!」
 大喜びで受け取ると、彼女は照れくさそうに小走りで帰って行った。教科書の重みで半分つぶれたパンは、しみじみと愛おしかった。
 翌日、見知らぬ女性が、「うちの畑で穫れました」と、たくさんの野菜を持って訪ねて来られた。「昨日は孫が大変お世話になりました。人と話すのが苦手で、引きこもりがちな子なんですけれど、昨日親切にしていただいたのが本当にうれしかったようで、歌を歌いながら帰ってきました。さっそくグミで、何か変ったものを作ってくれまして、私も初めての料理を食べさせてもらいました」と、大いに喜んでくださった。彼女は何を作ったのだろう。
 こういうことがあるので、グミの木の存在は本当にありがたい。でも、油断はできない。ヒヨドリに狙われたら最後、一日で実がすっかり食べられてしまうのだ。野鳥の襲来に目を光らせている私を見て、夫は笑う。
 「グミの実は、人間だけのものじゃない。そんなに欲張らずに、鳥にも分けてやったらいいじゃないか」
 ほんとに夫の言うとおり。だけど私は、やっぱりいろんな人の笑顔が見たいのだ。ヒヨドリさんには悪いけど。

                   (金光教のラジオ放送「こころで聴くおはなし」)より